日本共産党浪江町議会議員・馬場績のブログです。 福島県浪江町赤宇木字椚平で生まれ育ち、畜産業などを営んできた。現在町議9期目となる。復興・創生特別委員長。現在は大玉村に避難し、賠償や住居問題などで奮闘中。メールアドレス:baba.tushima@gmail.com
2011年10月12日水曜日
2011年9月7日水曜日
検証・ 浪江町 3月15日 空間線量 330μsv!
3月28日
赤宇木集会所前 80μsv
赤宇木集会所裏
集会所内、合計12人が2週間前に来た(集会所内 20μsv)
3月12日以前は、0.06μsv/h 外では。1,200倍強の放射線値
飯舘の3倍強
住人「シックだね、全然知らなかった」
木村真三さんに、危険性を知らせれた2日後の3月30日
集会場の人々は、去ることにした
住人「木村さんって方が、知らせてくれなければ
私達は、ずっとここに知らずに居ましたね」
赤宇木が、計画的避難区域に指定されたには、
彼らが去った、12日後のことだった
赤宇木は、突出した汚染地域だった
実は、文部科学省は
2号機が爆発した3月15日から、
計測値③は、330μsv
計測ポイントは、原発から北西方向が選ばれていた
計測器③は、赤宇木付近
文科省は、この地区をすでに注目していた
データーは官邸にあげられていた
「本日、文部科学省においてモニタリングを頂き、文部科学省から公表サれる数値について
専門の皆さんの、まずは、概略的な分析の報告に基づきますと
直ちに人体には影響を与えるような数値ではない」
屋内退避地域にある赤宇木が
特別な扱いになることはなかった
文部科学省は3月23日からは、放射線の積算量についても計測を始めている。
赤宇木で、そのモニタリングポストを見つけた
23日以前を考慮に入れると
積算量は集会場を人々が脱出した3月30日までに
25msvを超えていました
屋内にいる時間を考慮しても
赤宇木集会所に居続ければ
原子力安全委員会が避難の基準としている
年間50msvを数カ月で超えてしまうのは明らかだった
文科省の観測データは浪江町には、どう伝わっていたのか
「32番と云うのが、赤宇木の突出量なのです」
町は、データの存在を知っていました
しかし、地名が伏せられたデータを重要視してなかった
正確・正式には、情報提供はなかった
責任の所在が、文科省にあるのか、経産省にあるのか、安全保安院にあるのか
それが、一元化されていない
赤宇木集会所の人には、スクリーニングを受けた結果
基準値を超え、除染が必要になった人もいた
文科省に取材したところ
地名を伏せていたのは、”風評が広がるのを恐れたから”
ということでした
しかし、最も危険さらされてる人に
その危険を知らせることは最優先の課題であったはずだ
赤宇木は、情報が届かない穴ぼこのような場所だった
政府の情報隠しで被災者が被ばく (東京新聞)
2011/07/07 09:00
2011/07/07 09:00
文科省は三月十五日午後八時四十分ごろ
、浪江町の二十キロライン付近の三カ所で放射線量を測定した。
浜通りから見ると、赤宇木や津島など山側地区の玄関口に当たる。
放射線量は、赤宇木近くのポイントで240μsv/時(屋外)と非常に高い値だった。
測定場所の選定は、
国民に隠し続けた文科省所管の
緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の予測図を参考にしたという。
原発から北西方向の赤宇木や飯舘村が放射能にまみれていたことは、
後に公開された予測図で明らかになるが、文科省は事故直後から分かっていたわけだ
赤宇木手七郎で測定が始まるのは17日。
20キロ圏外のモニタリング調査の一環で実施されているが、
約三十五カ所の測定場所の地名は一切明らかにされず、
赤宇木手七郎は「【32】(約三十キロ北西)」とだけ表記された。
放射線量は、158~170μsv/時。
各測定場所を落とした地図が添付されたが、
福島県の大半をカバーしているため、【32】が浪江町にあることさえも判別しにくい。
なぜ地名が公表されなかったのか。
なぜ地名が公表されなかったのか。
文科省原子力災害対策支援本部の板倉周一郎・環境モニタリング班長は
「現地の住所表示が粗いので、地図で表した方が正確だと判断した。
正しい情報発信だった」と反論するが、いまひとつ説得力に欠ける。
地元の警察などに確認すれば、正確な地名の特定は難しいことではないと思われるからだ。
◆地図で表示 大臣も了解
こうした公表方法については、高木義明文科相ら政務三役も了解していたという。
◆地図で表示 大臣も了解
こうした公表方法については、高木義明文科相ら政務三役も了解していたという。
板倉班長は「具体的な地名を出すなという指示があったわけではない」と強調する。
測定データは、
経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会などにもファクスなどで届けられたが、
すぐに住民の避難に生かされることはなかった。
事故直後の混乱の中、文科省のHPを閲覧していた人がどれだけいただろうか。
仮にHPを見たとしても、地図の測定場所だけで危険を察知できただろうか。
結局、浪江町の浜通りの住民は、
放射線量の高い赤宇木や津島に避難。多くの人がしばらくとどまってしまった。
文科省が、赤宇木手七郎などの地名を明らかにしたのは4月11日分からだ。
文科省が、赤宇木手七郎などの地名を明らかにしたのは4月11日分からだ。
同じ日4月11日、政府は赤宇木や津島などを計画的避難区域に指定する方針を打ち出した。
板倉班長は、地名を公表した理由について
「住民からの問い合わせが多くなったからだ」
と説明するものの、言い逃れにしか聞こえない。
政府はSPEEDI情報やモニタリング調査に基づき、
計画的避難区域などを決めている。
自分たちが独占した情報で重要な決定を下した後、
ようやく一般国民に知らせた格好になるからだ。
今月7月4日午前の測定値は、
今月7月4日午前の測定値は、
赤宇木手七郎が17μsv/時。
赤宇木は依然として最高値を出し続けている。
赤宇木・津島地区には今も、前出の杉本さんを含めて約二十人ほどが住んでいる。
「キャンプ場の動物たちを置き去りにできない」と杉本さん。
事故直後から鼻血が出やすくなるなど体調は思わしくない
最近は左目がかすんできた
杉本さんは
「政府が情報を出さないから、たくさんの人が被ばくしてしまった。
これでは人体実験だ」と憤る。
<デスクメモ>
<デスクメモ>
毎時一七〇マイクロシーベルトもの高線量が計測された時点で、
現地に人を出し、住民を避難させる義務が国にはあっただろう
。「ホームページに掲載していました」などとは言い訳にもならない。
人命軽視の政府が今度は玄海原発を手始めに、停止中の原発を再稼働させようとしている。
次の事故があれば、また…。 (充)
参照記事
■原発事故直後 文科省 浪江町の高線量把握(東京新聞 2011年7月6日 06時59分)
文科省の発表資料。3月17日に線量測定が始まったが、当初、
浪江町赤宇木の測定ポイントは【32】とだけ表記された。
地名が明らかにされたのは4月11日からだ
文部科学省が福島第一原発事故直後の三月十七日以降、
現在は計画的避難区域に指定されている福島県浪江町山間部の赤宇木(あこうぎ)地区で
放射線モニタリング調査を実施し、
当初は毎時一五〇マイクロシーベルト以上の高線量であることを把握しながら、
一カ月間も具体的な地名を公表していなかったことが分かった。
政府の隠ぺい体質が多くの被ばく者を生んだ可能性がある。
同省は、所管する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)で、
原発から北西の赤宇木や飯舘村方面に放射性物質が流れている事実を察知。
これらの情報に基づき、赤宇木地区の調査を開始した。
三月十七日の放射線量は
毎時一五八~一七〇マイクロシーベルト。
だが、文科省ホームページで公表された資料では、
赤宇木の地名は明らかにされず、「【32】(約三十キロ北西)」とだけ記された。
文科省が、地名を明らかにしたのは、約一カ月後の四月十一日分から。
測定データは、経済産業省原子力安全・保安院などに送られたが、
一帯が計画的避難区域に設定されるまでは、ほとんど住民の避難に活用されなかった。
文科省が、地名を明らかにしたのは、
赤宇木の今月四日午前の測定値は毎時一七~三六マイクロシーベルト。二十キロ圏外の測定ポイントの中で最も高い値を示している。
文科省の担当者は「現地の住所表示が粗いので、測定ポイントを記した地図を公表した。地名を明らかにしたのは住民の問い合わせが多くなったからだ」と話している。
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