チェルノブイリ原発事故から31年が過ぎた。私は23年前(事故から8年後)に伊東達也さん(当時福島県議)らと視察調査に参加したことがある。今回のチェルノブイリ行きには二つの目的があった。
一つは原発事故でふるさとを追われた人々がどう生きてきたのか。サマショール(非居住地の自発的帰還者)の人々と心の交流をしたいということ。
二つは31年後の現地をこの目で見て、故郷を奪われた自分と津島を重ね合わせ、原発という、その非人道性を「現場」から告発したい、ということでした。
結論から言えばその目的を果たすことが出来たのではないかと思います。福島県農民連と友人、木村真三先生、通訳の五代さん、現地ガイドのセルゲイさんに心から御礼申し上げます。
31年後の叫びーー「バァーバは生きてるよー」
オパチチ村(チェルノブイリ原発の東方、30キロゾーン内)のショウクータ·マリヤさん(89歳)宅を訪れたのは9月25日である。
小柄な、マリヤさんは一人暮らしである。大きな張りのある声で次のように話してくれた。
「以前は600人の村人がいてコルホーズ(旧ソ連の集団農場)で働いていた。ここに戻ってきた人は、150人程いたけれども今は自分一人である。95年(事故9年後)に森林火災があり村の半分が焼けてしまった。『寂しくないですか』と私。『寂しくないよ。下に森林調査員がいる。そこに遊びに行くんだ』と。本当は寂しいに違いない。荒涼たる森林の中である。煙突のある小さい粗末な家の横には小屋があり、越冬用の薪が積まれていた。約20アールほどの畑がある。畑には葉ワサビ(のような)と、獲り残しのカボチャ、枯れたトウモロコシが少し残っているだけで、収穫を終えた砂壌土の畑はきれいに除草されていた。バァーバはきっと働き者に違いない。
東京新聞の坂本記者が『原発事故がなかったら人生が違っていましたか』と問う。彼女は、こう答えた。『友達がいっぱいいた。牛も豚もいた。事故が起こってここを離れた。』すべてを断ち切られた想いが込み上げたのだろうか、彼女は涙を拭いていた。
最後に私はマリヤさんに『いま一番言いたいことは何ですか』と聞いた。帰ってきた答えは『バーバは生きてるよ―』だった。今でも耳に残っている。生き延びた、いや精いっぱい生きてきた人間の叫びが私の心に響いた。
89歳、一人で耐えて今日まで生きてきたマリヤさん。彼女とハグをして別れた。彼女は草に覆われ、やっと轍が見える家のそばの道端に立ち、小さくなるまで見送ってくれた。
私は求めたい。傲慢な原子力政策を推進してきた国と東京電力は、原発事故を防止し得なかった政治的、社会的、法的責任を認め、原発事故のすべての被害に対し、責任を負うこと。